(参考判例)平成27年11月19日知財高裁判決〔特許権侵害行為差止等請求控訴事件〕
特許法102条1項ただし書の事情および同条2項の推定覆滅事由


 3 争点(5)(本件特許2は特許無効審判により無効にされるべきものか)について

  (1) 新規性の欠如について
   ア 乙28文献の記載
 乙28文献には,概略,次のような記載がある。
 (ア) 特許請求の範囲
 オフセットシリンダ,インプレッションシリンダ,フォルメシリンダ,ダンピングローラ等の印刷機用のシリンダおよびローラにおいて,金属シリンダもしくはローラの表面は,…酸化クロムCr2O3…等の金属酸化物もしくは該酸化物の混合物,又は約80重量%のニッケルと20重量%のクロムより成るニッケル-クロム合金,ニッケル-クロム-ポラシウム-シリカ合金,又はステンレス鉄より成る厚さ0.05~0.6mmの分離しえない表面層を有し,該表面層と金属シリンダもしくはローラとの間には,…等の合金のうち一つを有する少なくとも一つの中間層を設け,かつ上記シリンダもしくはローラの表面粗さをRa=7~25ミクロンとした印刷機用のシリンダ及びローラ。
 (イ) 発明の詳細な説明
 本発明は印刷機,特にオフセット印刷用のプリンテングシリンダ,インプレッションシリンダ,フォルメ(forme)シリンダ,およびダンピングローラ等の表面の耐腐食性が極めて高くなければならずかつ印刷工程時使用される化学薬品の影響に強くなければならないシリンダ,ローラ類に関する。(1頁右欄5行~11行)
 かかるシリンダやローラの表面は水,印刷染料,および印刷機上で印刷のため使用される種々の化学薬品と接触する。これらの物質は印刷シリンダの表面の好ましくない腐食の原因になる。(1頁右欄12行~15行)
 シリンダおよびローラの表面は,シリンダ面が正しい幾何的形状になり,シリンダの位置がその表面と正確に同軸となり,かつ良好な表面性質となるよう,大概はみがかれていて,これにより印刷の質に実質的な影響を与えている。(1頁右欄19行~2頁左上欄4行)
 以上述べた耐腐食性とは別に,多色印刷機,又は紙シートの一側に印刷しそれから調整の後紙シートの両側印刷する印刷機のためのインプレッションシリンダの表面には特殊な要請がある。このインプレッションシリンダの表面は紙シート上の印刷された像の表面にまだ乾いていないインク-これは第2の印刷ユニットのインプレッションシリンダに伝達される-を擦り付けにくい性質,およびインプレッションシリンダの表面にインクを蓄積させない性質を具備せねばならない。(2頁左下欄2行~11行)
 上記した公知技術の欠点を避けるため,本発明によれば金属シリンダの表面には,…から成る0.05~0.6mmの厚みの分離し得ない層を設けるようにしている。金属シリンダ上のこの分離し得ない表面層は,…からも作り得る。シリンダ上の分離しえない表面層は…から作ることもできる。この表面層と金属シリンダの固有の表面との間には,…から構成した少なくとも一つの中間層を設ける。表面粗さはRa=7~25ミクロンの範囲とする。(3頁左上欄12行~右上欄17行)
 本発明による上記の層を具えたシリンダおよびローラの表面は極めて耐食性が高く,印刷技術に使用する化学薬品の影響に強く,それ故シリンダの寿命は延長される。本発明によれば,金属シリコンにより形成される表面は導電性でなくフォルメシリンダの表面と印刷プレート間に通常発生する接触腐食は避けられる。(3頁右上欄18行~左下欄4行)
 本発明に係る印刷シリンダの利点によれば,表面層はシリンダの固有の表面を正確にコピーし,その結果シリンダの表面幾何形状は変更されず,それ故シリンダ表面に適合させるための付加的な研摩工程が不用なのである。(3頁左下欄8行~12行)
 本発明のように,多色印刷機および紙シートの両面印刷機のためのインプレッションシリンダ用のシリンダの表面層を粗にすると,紙上の乾いていない印刷物のインクが擦りつけられるおそれは減ぜられる利点がある。(3頁左下欄13行~17行)
 (ウ) 実施例
 〔実施例1〕
 表面が研削され,約70重量%の酸化アルミニユームAl2O3と30重量%の酸化チタンTiO2から成り,0.2mmの表面厚さを持つ表面2…を具えた鋳造鉄製のフォルメシリンダを作った。(3頁左下欄19行~右下欄4行)
 〔実施例2〕
 表面研摩の後,約70重量%のニッケルと30%のアルミニユームとよりなるニッケル-アルミニユーム合金から構成した厚み0.05mmの中間層3,ならびに約87%の酸化アルミニユームAl2O3と13%の酸化チタンより成る厚さ0.2mmの表面層2を具えた鋳造鉄製のフォルメシリンダを作った。(3頁右下欄5行~12行)
 〔実施例3〕
 紙シート両面の印刷が可能な印刷機のための鋳造鉄製インプレッションシリンダであって,その表面に研摩の後,表面粗さRa=14ミクロンのクロム-ニッケルを含有したステンレス鉄から成る表面層2を具えたインプレッションシリンダを作った。(3頁右下欄13行~19行)
 〔実施例4〕
 紙シートの両面印刷機用の鋳造鉄製インプレッションシリンダであって,その表面に,研摩後,70重量%のニッケルと30重量%のアルミニユームとよりなるニッケル-アルミニユーム合金より構成した厚さ0.05mmの中間層3を設け,この中間層3は厚み0.15mm表面粗さ R ママ =14ミクロンの,クロム,ニッケル含有ステンレス鉄から成る表面層2の基部として構成したインプレッションシリンダを作った。(3頁右下欄20行~4頁左上欄9行)
   イ 乙28文献に記載された発明
 (ア) 前記アの記載によれば,乙28文献には,以下の発明が記載されているものと認められる。
 「版を装着して使用するオフセット印刷用のインプレッションシリンダにおいて,前記インプレッションシリンダの表面層をクロム系金属で形成し,該インプレッションシリンダの表面粗さRaを7ミクロン≦Ra≦25ミクロンに調整したオフセット印刷用のインプレッションシリンダ」(以下「乙28発明」という。)
 (イ) 被控訴人の主張について
 被控訴人は,乙28文献には,「版を装着して使用するオフセット輪転機版胴において,前記版胴の表面粗さRaをRa=7~25ミクロンに調整したことを特徴とするオフセット輪転機版胴」が記載されている旨主張する。
 前記アの記載によれば,乙28文献には,「オフセットシリンダ,インプレッションシリンダ,フォルメシリンダ,ダンピングローラ等の印刷機用のシリンダおよびローラ」を対象として,耐食性の向上を課題とした発明が記載されているものと認められる。そして,特許請求の範囲には,金属シリンダの表面は,クロム系金属の表面層が設けられ,該表面層と金属シリンダとの間には,ニッケル系金属の中間層が設けられ,「シリンダの表面粗さをRa=7~25ミクロンとした」旨記載されており,「表面粗さをRa=7~25ミクロンとした」との事項が,印刷機用のシリンダのうち特にインプレッションシリンダについての発明特定事項を規定したものであることを示す記載はない。しかし,発明の詳細な説明には,インプレッションシリンダについては,他のシリンダとは異なり,表面は紙シート上の印刷された像の表面にまだ乾いていないインクを擦り付けにくい性質及び表面にインクを蓄積させない性質を具備しなければならないという「特殊な要請」があることが記載され,乙28文献に記載された発明のように「インプレッションシリンダ用のシリンダの表面層を粗にすると,紙上の乾いていない印刷物のインクが擦りつけられるおそれは減ぜられる利点がある」ことが記載されており,実施例3及び4として,表面粗さをRa=14ミクロンとした表面層を具えたインプレッションシリンダの例が記載されている。
 これに対し,乙28文献の発明の詳細な説明には,「版胴」(フォルメシリンダ)については,「本発明によれば,金属シリコンにより形成される表面は導電性でなくフォルメシリンダの表面と印刷プレート間に通常発生する接触腐食は避けられる。」と記載されているものの,シリンダの表面層を粗にする要請があることやそれによる利点があることについては何ら記載がなく,実施例1及び2に記載されたフォルメシリンダの例には「表面粗さをRa=7~25ミクロンとした」点は記載されていない。
 以上のとおり,特許請求の範囲の記載のみならず,発明の詳細な説明の記載を参酌すれば,乙28文献において,「表面粗さをRa=7~25ミクロンとした」シリンダとして開示されているのは,インプレッションシリンダであって,版胴(フォルメシリンダ)ではないと認められる。
 したがって,乙28文献に,「表面粗さをRa=7~25ミクロンとした」版胴(フォルメシリンダ)が開示されているとは認められないから,被控訴人の上記主張は理由がない。
   ウ 本件訂正発明2と乙28発明との対比
 (ア) 本件訂正発明2と乙28発明とは,「版を装着して使用するオフセット印刷用のシリンダにおいて,前記シリンダの表面層をクロム系金属で形成し,該シリンダの表面粗さを調整したオフセット印刷用のシリンダ」である点で一致する。
 (イ) 本件訂正発明2と乙28発明とは,以下の点において相違する。
  a 相違点1
 オフセット印刷用のシリンダの対象が,本件訂正発明2では,版胴(フォルメシリンダ)であるのに対し,乙28発明では,インプレッションシリンダである点
  b 相違点2
 シリンダの表面粗さの調整について,本件訂正発明2では,表面粗さRmaxを6.0μm≦Rmax≦100μmに調整しているのに対し,乙28発明では,表面粗さRaを7ミクロン≦Ra≦25ミクロンに調整している点
 (ウ) 相違点2について
  a JIS規格(乙2)には,以下の事項が記載されている。
   ? 「表面粗さ」とは,対象物の表面からランダムに抜き取った各部分におけるRa(中心線平均粗さ),Rmax(最大高さ)又はRz(十点平均粗さ)のそれぞれの算術平均値を意味する。(1頁)
   ? Ra(中心線平均粗さ)は,粗さ曲線からその中心線の方向に測定長さlの部分を抜き取り,この抜取り部分の中心線をX軸,縦倍率の方向をY軸とし,粗さ曲線をy=f(x)で表したとき,次の式によって求められる値をマイクロメートル(μm)で表したものをいう。(2頁)
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   ? Rmax(最大高さ)は,断面曲線から基準長さだけ抜き取った部分の平均線に平行な2直線で抜取り部分を挟んだとき,この2直線の間隔を断面曲線の縦倍率の方向に測定して,この値をマイクロメートル(μm)で表したものをいう。
 最大高さを求める場合の基準長さは,原則として,0.08mm,0.25mm,0.8mm,2.5mm,8mm,25mmの6種類であるが,特に指定する必要がない限り,「0.8μmRmaxを超え6.3μmRmax以下」では基準長さは0.8mm,「6.3μmRmaxを超え25μmRmax以下」では基準長さは2.5mm,「25μmRmaxを超え100μmRmax以下」では基準長さは8mmの区分による。(3~4頁)
   ? 解説表1では,Ra=12.5は,Rmax=50に相当し,Ra=25は,Rmax=100に相当するとされている。(17頁)
   ? 解説表1などでは,RaはRmax又はRzの1/4に等しいように記載されているが,この関係が成立するのは,解説図2?に示した同じ高さの三角山が並んでいる場合だけで,解説図2?のように不規則な凸凹の面に対しては大約にしか成立しない。(14頁)
   ? 解説表1では,RzはRmaxに等しく,RaはRmax又はRzの1/4に等しいように記載されているが,この関係が成立するのは同じ高さの三角山が並んでいる場合だけで,一般の加工面では大約にしかあてはまらない。これは表面粗さの数値が機械的な量であることから当然のことで,3種類の表示相互間には,恒等的な関係はありえない。したがって,三角記号の数との関係も,すべてを一般的に定めることはできない。ただ,表面粗さをおおざっぱに指定する場合の便宜を考えて,この関係を表記のように一括したものである。もし,より厳密さを要するならば,それがRa,Rmax又はRzのいずれを指定するかを明示しなければならない。(17頁)
  b JIS規格(乙2)の上記aの記載によれば,RaとRmaxとの関係は,一義的には定まらず,両者の間に恒等的な関係はないと認められる。
 したがって,RmaxとRaとは,表面粗さを示す数値である点では共通するが,それぞれの定義が異なり,また,両者の間に恒等的な関係は成立しないから,それぞれの数値を単に換算・比較して,同一性を論ずることはできないというべきである。
   エ 以上によれば,本件訂正発明2と乙28発明とは,相違点1及び相違点2において相違しているから,本件訂正発明2と乙28発明とが同一であると認めることはできない。
 したがって,被控訴人の新規性の欠如に係る主張は理由がない。
  (2) 進歩性の欠如について
   ア 被控訴人は,本件特許2の出願前に表面粗さを2.47~4.02μmとした版胴(版としてPS版を使用)で版ずれトラブルがなかった被控訴人製の版胴(以下「東日印刷版胴」という。)を主引用例として,これに版と版胴のズレが版の裏面と版胴の表面との摩擦係数に影響されるとの知見に基づき版ずれ防止のために版の裏面の表面粗さを20μm以上,好ましくは25~100μmとした乙29文献を組み合わせれば,本件訂正発明2は容易に想到することができたものである旨主張する。
   イ 主引用例(東日印刷版胴)について
 証拠(乙2,13~17,21~23,26。枝番を含む。)によれば,被控訴人は,昭和63年8月に東日印刷株式会社に被控訴人製の版胴を納入したこと,東日印刷版胴の設計図面(乙15の1)には,表面粗さRmaxを1.5μmに調整することが記載されていること,上記設計図面に基づいて製作され納入された東日印刷版胴は,平成23年1月から2月にかけて測定した結果,その表面粗さRmax=2.47~4.02μmに調整されていたことが認められる。しかし,これらの事実から,版ずれを防止するために版胴の表面粗さRmaxを調整するという技術的思想や版胴の表面粗さRmaxをより大きな値に調整するという技術的思想を読み取ることはできない。
 したがって,被控訴人が主張する主引用例(東日印刷版胴)から,版胴の表面粗さRmaxをより粗に(大きな数値に)調整することの動機を見いだすことはできない。
   ウ 乙29文献の記載
 (ア) 乙29文献には,概略,次のような記載がある。
  a 特許請求の範囲
 平織物の表裏両面に樹脂層を設けた印刷版用基材において,版胴との接触面となる裏面は平織物を構成する糸の一部が露出され,かつ裏面の表面粗さが20μ以上であることを特徴とする平版印刷版用基材。
  b 発明の詳細な説明
 この発明は平版印刷版に使用する基材に関する。(1頁左欄14行)
 従来,平版印刷(オフセット印刷)は,…上記印刷版用基材として,アルミニウム…などの金属板およびこれら金属板に銅,クロムなどをメッキしたものが使用され,これら金属板は耐久性,印刷性が良好で数万枚の多量の紙の印刷も可能である。(1頁左欄15行~右欄5行)
 …軽印刷やビジネス印刷では,特に即応性が要求され,従って製版も自動化の傾向をたどっている。この自動製版システムにおいては,上記金属板を基材とする印刷板は,連続ロールの形で供給できないという大きな欠点があり,また印刷中にインキ汚れや印刷板のずれを生じて印刷不能になる場合があり,さらに金属板は厚み0.1~0.3mm程度の薄板であるために取扱いにくく,作業時の安全性にも問題がある。(1頁右欄9行~17行)
 この発明は,平版印刷版用の基材として平織物を使用することによって,印刷機への自動装填を容易にし,かつ版胴に対するフィット性を向上させ,印刷中の見当不良を軽減し,鮮明かつ安定な印刷を可能としたものである。(2頁左上欄12行~16行)
 すなわちこの発明は,平織物の表裏両面に樹脂層を設けた印刷版用基材において,版胴との接触面となる裏面は平織物を構成する糸の一部が露出され,かつ裏面の表面粗さが20μm以上であることを特徴とする平版印刷版用基材である。(2頁左上欄17行~右上欄1行)
 この発明の一つの特長は,版胴との接触面となる基材裏面の表面粗さが20μ以上,好ましくは25~100μである。なお,上記表面粗さはJIS-B0601によって測定された値である。基材裏面の表面粗さが20μ未満では版胴へのフィット性が低下し,印刷中に基材と版胴との間にズレや歪が発生し,数千枚以上の印刷を均一に行うことができない。(2頁右上欄13行~20行)
 この発明の他の特長は平織物を使用することである。平織物以外の組織の織物,たとえば綾織物を使用したときは,版胴へのフィット適性および印刷見当性が悪くなる。(2頁左下欄1行~4行)
 この発明による平版印刷版用基材は,従来の金属板やマスタペーパと異なり,平織物と樹脂層との複合シートであり,かつ版胴との接触面となる裏面に適度な凹凸があるため,圧縮弾性が大きくて版胴に対するフィット性が良好であり,圧縮弾性による印圧の作用がはたらいて耐刷性,グリップ適性が,マスタペーパに比べて優れている。また版胴に対するフィット性が良好なために,高速印刷においてズレが発生せず,従って見当性その他の印刷性能は従来の金属板に比べて劣ることはない。(3頁左上欄11行~右上欄1行)
 (イ) 前記(ア)のとおり,乙29文献に記載されているのは,版胴に取り付けられる平版印刷版用基材に関する発明であって,版胴に関する発明ではないから,本件訂正発明2とは,表面粗さを規定する対象が異なる。
 (ウ) さらに,本件訂正発明2は,前記2(1)イ記載のとおり,版胴とブランケット胴との間の周長差に起因して版胴に装着された版に接線力が作用し,版と版胴との間で版ずれトラブルが発生するという課題に対し,版胴の表面粗さを調整することによって,版と版胴間の摩擦係数を増加させることにより,版ずれトラブルを防止するというものである。
 これに対し,前記(ア)の記載によれば,乙29文献には,平織物の表裏両面に樹脂層を設けた印刷版用基材において,版胴との接触面となる基材裏面の表面粗さが20μm以上,好ましくは25~100μmとすることによって,平織物と樹脂層との複合シートであり,かつ版胴との接触面となる裏面に適度な凹凸があるため,圧縮弾性が大きく,版胴に対するフィット性が良好であり,高速印刷においてズレが発生するのを防止することができることが記載されているものと認められる。ここでの版胴とのズレの発生を防止するための解決原理は,基材として金属ではない平織物と樹脂層との複合シートを用い,かつその裏面に適度な凹凸をつけることによって,圧縮弾性を大きくし,版胴に対するフィット性を高めるというものであって,本件訂正発明2の解決原理である金属製の版胴の表面粗さを調整することによって,版と版胴間の摩擦係数を増加させるというものとは異なる。
 したがって,乙29文献からは,金属製の版胴の表面粗さを調整することによって,版と版胴間の摩擦係数を増加させ,これにより版ずれトラブルを防止するという技術的思想を読み取ることはできず,乙29文献に,本件訂正発明2に係る版胴の表面粗さRmaxの構成が記載又は示唆されているということはできない。
   エ 被控訴人の主張について
 被控訴人は,本件訂正発明2は,版ずれトラブルの原因が版と版胴との摩擦係数にあることが乙29文献などで広く知られ,東日印刷版胴が存在した状況において,版胴の表面粗さをRmax≧6.0μmと更に粗くしたにすぎないものであるとして,表面粗さの程度は,設計的事項であって,本件訂正発明2に進歩性が認められるには,Rmaxの数値範囲に臨界的意義が必要である旨主張する。
 しかしながら,前記イ及びウのとおり,東日印刷版胴や乙29文献に,版胴の表面粗さRmaxを調整することによって,版と版胴間の摩擦係数を増加させ,これにより版ずれトラブルを防止するということが開示されていると認めることはできず,他に本件特許2の出願当時上記事項が当業者に周知であったことを認めるに足りる証拠はないから,本件訂正発明2の規定する版胴の表面粗さRmaxの数値範囲が,当業者において適宜定めるべき設計的事項にすぎないとはいえない。
   オ 前記イ及びウのとおり,東日印刷版胴(表面粗さを2.47~4.02μmとした版胴)には,版ずれトラブルの防止という課題や版と版胴のズレが版の裏面と版胴の表面との摩擦係数に影響されるとの知見は存せず,また,乙29文献にも,版ずれを防止するために版胴の表面粗さRmaxを調整するという技術的思想は存しないから,東日印刷版胴に,版ずれトラブル防止のために,乙29文献に記載された発明を組み合わせる動機付けがあるとは認められない。
 さらに,仮に,当業者において,東日印刷版胴に乙29文献に記載された発明の適用を試みたとしても,前記ウのとおり,乙29文献に記載された発明は平版印刷版用基材の裏面の表面粗さを20μm以上,好ましくは25~100μmに調整する発明にすぎないから,東日印刷版胴において,その版胴の表面粗さRmaxをより粗に(大きな数値に)調整することにはならない。
 以上によれば,本件訂正発明2は,東日印刷版胴に乙29文献に記載された発明を組み合わせることによって,容易に発明をすることができたものであるとは認められない。
 したがって,被控訴人の進歩性の欠如に係る主張は理由がない。
  (3) 記載要件違反について
   ア サポート要件違反について
 (ア) 特許請求の範囲の記載がサポート要件に適合するか否かは,特許請求の範囲の記載と発明の詳細な説明の記載とを対比し,特許請求の範囲に記載された発明が,発明の詳細な説明に記載された発明で,発明の詳細な説明の記載により当業者が当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否か,また,発明の詳細な説明に記載や示唆がなくとも当業者が出願時の技術常識に照らし当該発明の課題を解決できると認識できる範囲のものであるか否かを検討して判断すべきものと解される。
 (イ) そこで,特許請求の範囲の記載と本件訂正明細書2の発明の詳細な説明の記載とを対比するに,本件訂正発明2の特許請求の範囲の記載は,前記第2の2(3)ウ記載のとおりである。
 そして,本件訂正明細書2の発明の詳細な説明には,前記2(1)イのとおり,本件訂正発明2は,オフセット輪転機の版胴に関し(【0001】),従来の版胴に版を装着して印刷する場合,ブランケット胴との間で相互に周長差があると,版胴に装着された版に接線力が作用することになるため,版と版胴との間で,周長差に対応した微小すべりを発生し,印刷作業の進行と共に,このすべりが蓄積され,版と版胴の相対位置が変化する,いわゆる版ずれトラブルが発生するという問題があったことから(【0003】,【0004】),版ずれトラブルを容易に防止できる版胴を提供することを目的とし(【0005】),かかる課題を解決する手段として,表面層をクロムメッキ又は耐食鋼で形成した版胴の表面粗さを,6.0μm≦Rmax≦100μmに調整することによって,版と版胴間の摩擦係数を増加させることができ,これにより版ずれトラブルを防止することができることが記載されている(【0006】,【0007】,【0014】)。また,本件訂正明細書2には,実施例として,版胴の表面粗さRmaxと約20万部印刷後の版ずれ量の関係の実験例が図2のグラフに示されており(【0009】,【図2】),図2から,「Rmaxが大きい程,版ずれ防止効果も優れていることが容易に推測されるが,Rmax>100μmでは,版胴の寸法精度や汚れ除去特性に問題が生じることが考えられるので,Rmaxの上限値をRmax≦100μmとする。」として,数値範囲の上限値を100μmとする理由が示されるとともに,「Rmax<1.0μmでは従来版胴に比べて版ずれ防止効果が小さいので,その下限をRmax≧1.0μmとする。」として,数値範囲の下限値を1.0μmとする理由が示されている(【0009】,【0010】)。さらに,表面粗度Rmax≒6.0μmとした版胴を用いて,版ずれ量を調査する実験を行い,同寸法・形状の従来版胴を用いた場合の版ずれ量との比較をした結果(それぞれ版4枚ずつの実験を行い,4枚分のデータを得ている。)が,図3のグラフに示されており,「各版で版ずれ量にばらつきがあるが,従来品では版ずれが発生しており,本発明版胴では4枚とも版ずれが発生していないという結果がでている。」として(【0011】,【0012】,【図3】),「図3から,本発明版胴の版ずれ防止効果が極めて優れていることが分かる。」と記載されている(【0013】)。
 以上のように,本件訂正明細書2の発明の詳細な説明には,版胴の表面粗さRmaxを1.0μm以上とした場合,表面粗さが大きくなるほど,版ずれの量が小さくなるが,Rmaxが100μmを超えると版胴の寸法精度や汚れ除去特性に問題が生じること,逆にRmaxが1.0μmより小さいと版ずれ防止効果が小さいことが記載されており,また,表面粗さが1.0μmより大きくなるほど版ずれの量が小さくなるので,Rmaxが6.0μmの場合は,これが1.0μmの場合よりも版ずれ量が小さくなり,版ずれ防止効果が高いことも,当業者であれば理解できる事項である。
 (ウ) 以上によれば,本件訂正明細書2には,版胴の表面粗さRmaxを6.0μm≦Rmax≦100μmに調整することにより,版ずれトラブルを防止するという課題が解決されることが記載されているから,本件訂正発明2の特許請求の範囲は,本件訂正明細書2の記載により,当業者が本件訂正発明2の上記課題を解決できると認識できる範囲のものということができ,サポート要件を充足するというべきである。
 したがって,被控訴人のサポート要件違反に係る主張は理由がない。
   イ 実施可能要件違反について
 (ア) 本件訂正明細書2には,前記ア(イ)のとおり,本件訂正発明2は,表面層をクロムメッキ又は耐食鋼で形成した版胴の表面粗さを,6.0μm≦Rmax≦100μmに調整することによって,版と版胴間の摩擦係数を増加させ,これにより版ずれトラブルを防止するものであることが記載されているから,当業者は,本件訂正発明2が,版胴表面のうち,版を装着する部分のRmaxを6.0μm≦Rmax≦100μmの範囲に調整することで,上記作用効果を奏するものであることを容易に理解することができる。
 そして,JIS規格(乙2)には,表面粗さは,対象物の表面から「ランダム」に抜き取った各部分におけるRa,Rmax又はRzのそれぞれの算術平均値をいい,このうちRmax(最大高さ)は,断面曲線から基準長さだけ抜き取った部分の平均線に平行な2直線で抜取り部分を挟んだとき,この2直線の間隔を断面曲線の縦倍率の方向に測定して,この値をマイクロメートル(μm)で表したものを指すこと,最大高さを求めるとき,被測定面が曲面の場合には,切り口に現れるはずの曲線に沿って最大高さを求めることや最大高さを求める場合,きずとみなされるような並はずれて高い山や深い谷のない部分から,基準長さだけ抜き取ること,基準長さについても,表面粗さの表示や指示を行う場合,その都度これを指定するのは不便であるので,特に指定する必要がない限りは,基準長さの標準値(「0.8μmRmaxを超え6.3μmRmax以下」では基準長さは0.8mm,「6.3μmRmaxを超え25μmRmax以下」では基準長さは2.5mm,「25μmRmaxを超え100μmRmax以下」では基準長さは8mm)を用いるものとすること等,Rmaxの定義やその求め方の規格が示されている。そうすると,当業者であれば,JIS規格に示された測定方法等に従い,版胴の版を装着する部分のうち任意に抜き取った各部分のRmaxを測定し,この算術平均値が,版胴全体として,6.0μm≦Rmax≦100μmとなるように調整することは十分に可能であると認められる。
 したがって,当業者であれば,本件訂正明細書2の記載及び本件特許2の出願日当時の技術常識に基づいて,本件訂正発明2を実施することが可能であったというべきである。
 (イ) 被控訴人の主張について
 被控訴人は,版胴の版を装着する部分といっても広範であり,基準長さである8mmの取り方は無限に存在し,また,本件特許2の出願当時の研削加工精度の問題から版胴の表面粗さを均一にすることは困難であり,同じ版胴でも測定箇所によりばらつきがみられることから,版胴のどの部分をどのように測定するのか測定方法の記載がなければ,当業者において本件訂正発明2を実施することが可能であるとはいえない旨主張する。
 しかし,JIS規格には,前記(ア)のとおり,表面粗さRmaxの定義やその求め方の規格が示されており,しかも,本件訂正発明2の表面粗さRmaxの数値範囲は6.0μm≦Rmax≦100μmと幅をもったものであるから,版を装着する部分の範囲が広範であるからといって,当業者において,JIS規格に基づいて表面粗さRmaxを調整することが可能でないとはいえない。
 また,JIS規格は,対象物の表面粗さにある程度のばらつきがあることを予定しているものと認められるから(乙2の13頁「5.3 基準長さ」),測定箇所によりRmaxの数値にばらつきがみられるとしても,当業者において,JIS規格に基づいて表面粗さRmaxを本件訂正発明2の数値範囲内に調整することが可能でないとはいえない。
 (ウ) したがって,被控訴人の実施可能要件違反に係る主張は理由がない。
  (4) 小括
 以上によれば,本件訂正発明2が特許無効審判により無効にされるべきものであるとは認められない。