知財高裁平成24年3月14日判決〔特許法36条4項1号・実施可能要件・軸受装置事件〕

【オレンジ法律事務所の私見・注釈】

1 本件は、Xが、発明の名称を「軸受装置」とする特許を出願したが、拒絶査定を受けたので、拒絶査定不服審判を請求したところ、特許庁が請求不成立の審決をした。

そこで、Xが、(1)特許法36条4項に係る判断の誤り、(2)特許法36条6項2号に係る判断の誤り、(3)容易想到性に係る判断の誤りを審決の取消事由と主張して、審決の取消しを求めて審決取消訴訟を提起した事案である。

2 知財高裁は、「法36条4項において、明細書の発明の詳細な説明について、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載しなければならないと規定した趣旨は、発明の詳細な説明に基づいて当業者が実施できない発明に対して独占的な権利を付与することは、発明を公開したことの代償として独占権を付与するという特許制度の趣旨に反する結果を生ずるためであるところ、本願明細書の発明の詳細な説明には、当業者が本願発明の技術上の意義を理解するために必要な事項の記載がない以上、当業者は、出願時の技術水準に照らしても、硬化層のかしめ側端部の位置を本件関係式に基づいて規定することにより内輪と中空軸との間に普遍的に隙間が発生しないという技術上の意義を有するものとしての本願発明を実施することができないのであるから、その記載は、発明の詳細な説明に基づいて当業者が当該発明を実施できることを求めるという法36条4項の上記趣旨に適合しないものである。したがって、このような本願明細書の発明の詳細な説明の記載について、通常の知識を有する者が発明の実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載したものとはいえないとして、法36条4項の要件を満たさないと判断した本件審決に誤りがあるということはできない。」とし、その余の取消事由を判断するまでもなく、請求を棄却されるべきものであるとした。

3 特許法36条4項は、実施可能要件として、「経済産業省令で定めるところにより、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載したものであること」と規定する。

特許法施行規則24条の2は、「特許法第三十六条第四項第一号の経済産業省令で定めるところによる記載は、発明が解決しようとする課題及びその解決手段その他のその発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者が発明の技術上の意義を理解するために必要な事項を記載することによりしなければならない」と規定する。

かかる「発明の技術上の意義を理解するために必要な事項」が実施可能要件とは別の要件との解釈もありうる(特許庁の審査基準参照)が、本判決において、同事項の記載がない以上、「法36条4項の上記趣旨に適合しない」と判示されていることからすれば、同事項の記載は、実施可能要件とは別の独立した要件ではなく、実施可能要件を判断するための判断要素の一つと考えるべきであろう(知財高裁平成21・7・29判決参照)。


■参考判例 知財高裁平成21年7月29日判決〔特許法36条4項1号・実施可能要件等・スロットマシン事件〕

主文

 原告の請求を棄却する。

 訴訟費用は原告の負担とする。 

事実及び理由

第1 請求

 特許庁が不服2010-11154号事件について平成23年6月28日にした審決を取り消す。

第2 事案の概要

 本件は、原告が、下記1のとおりの手続において、特許請求の範囲の記載を下記2とする本件出願に対する拒絶査定不服審判の請求について、特許庁が、同請求は成り立たないとした別紙審決書(写し)の本件審決(その理由の要旨は下記3のとおり)には、下記4の取消事由があると主張して、その取消しを求める事案である。

 1 特許庁における手続の経緯

  (1) 光洋精工株式会社は、平成13年5月25日、発明の名称を「軸受装置」とする特許を出願(特願2001-156765号。国内優先権主張日:平成12年7月10日。請求項の数2)した(甲1の1・2)。

  (2) 光洋精工は、平成18年1月1日、豊田工機株式会社との合併に伴い、商号を株式会社ジェイテクト(原告)に変更し、同月6日、特許庁長官に対し、本件出願の名義変更を届け出た(甲13)。

  (3) 原告は、平成22年3月2日付けで拒絶査定を受けたので、同年5月25日、これに対する不服の審判を請求した。

  (4) 特許庁は、前記請求を不服2010-11154号事件として審理し、平成23年6月28日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との本件審決をし、その謄本は、同年7月12日、原告に送達された。

 2 特許請求の範囲の記載

 本件審決が判断の対象とした特許請求の範囲の請求項1の記載は、次のとおりである。ただし、平成22年5月25日付け手続補正書(甲5)による補正後のものである。なお、文中の「/」は、式中のものを除き、原文の改行箇所である。以下、その発明を「本願発明」といい、本願発明に係る明細書(甲1の2、甲5、8)を「本願明細書」という。

 中空軸の外周に転がり軸受の内輪を外嵌し、前記中空軸の軸端を径方向外向きに屈曲させて前記転がり軸受の内輪の外端面にかしめつけて、転がり軸受に対する抜け止めと予圧付与とを行う軸受装置であって、/前記中空軸の転がり軸受嵌合領域において、前記内輪の反かしめ側端面相当位置からかしめ側端面相当位置の手前までの範囲に硬化層が形成され、また前記かしめ側端面相当位置の手前から前記中空軸の軸端までの範囲が未硬化とされており、/前記硬化層のかしめ側端部の位置を関係式(1)に基づいて規定することにより、内輪と中空軸との間に隙間が発生しないようにされていることを特徴とする軸受装置。

 (A-C-D)Y/E≦X…(1)

 前記(1)式において、内輪の軸方向幅をA、内輪のかしめ側の外端面における軸方向面取長さをC、内輪の反かしめ側の外端面における軸方向面取長さをD、中空軸の厚さをE、面取長さDの位置より前記硬化層のかしめ側端部までの距離をX、硬化処理深さをY(<E)で示す。

 3 本件審決の理由の要旨

  (1) 本件審決の理由は、要するに、①本願明細書の発明の詳細な説明は、当業者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載したものとはいえず、平成14年法律第24号による改正前の特許法(以下「法」という。)36条4項に規定する要件を満たしていないので、特許を受けることができない、②特許請求の範囲は、特許を受けようとする発明が明確に記載されたものとはいえず、特許法36条6項2号に規定する要件を満たしていないので、特許を受けることができない、③本願発明は、特開平11-129703号公報(甲2。以下「引用例」という。)に記載された発明(以下「引用発明」という。)に基づいて、当業者が容易に発明をすることができたものであるから、同法29条2項の規定により、特許を受けることができない、というものである。

  (2) なお、本件審決は、その判断の前提として、引用発明並びに本願発明と引用発明との一致点及び相違点を以下のとおり認定した。

   ア 引用発明:ハブの外周に転がり軸受の内輪を外嵌し、前記ハブの軸端を径方向外向きに屈曲させて前記転がり軸受の内輪の外端面にかしめつけて、転がり軸受に対する抜け止めと予圧付与とを行う車輪支持用転がり軸受ユニットであって、前記ハブの転がり軸受嵌合領域において、前記内輪の反かしめ側端面相当位置からかしめ側端面相当位置の手前までの範囲に焼き入れ硬化層が形成され、また前記かしめ側端面相当位置の手前から前記ハブの軸端までの範囲が未硬化とされている車輪支持用転がり軸受ユニット

   イ 一致点:中空軸の外周に転がり軸受の内輪を外嵌し、前記中空軸の軸端を径方向外向きに屈曲させて前記転がり軸受の内輪の外端面にかしめつけて、転がり軸受に対する抜け止めと予圧付与とを行う軸受装置であって、前記中空軸の転がり軸受嵌合領域において、前記内輪の反かしめ側端面相当位置からかしめ側端面相当位置の手前までの範囲に硬化層が形成され、また前記かしめ側端面相当位置の手前から前記中空軸の軸端までの範囲が未硬化とされている軸受装置である点

   ウ 相違点:本願発明は、内輪の軸方向幅をA、内輪のかしめ側の外端面における軸方向面取長さをC、内輪の反かしめ側の外端面における軸方向面取長さをD、中空軸の厚さをE、面取長さDの位置より前記硬化層のかしめ側端部までの距離をX、硬化処理深さをY(<E)とした場合、硬化層のかしめ側端部の位置を関係式「(A-C-D)Y/E≦X」(以下「本件関係式」という。)に基づいて規定することにより、内輪と中空軸との間に隙間が発生しないようにされているのに対し、引用発明は、そのような関係式に基づいて硬化層の範囲について明確に規定していない点

 4 取消事由

  (1) 本願発明の記載要件に係る判断の誤り

   ア 法36条4項に係る判断の誤り(取消事由1)

   イ 特許法36条6項2号に係る判断の誤り(取消事由2)

  (2) 本願発明の容易想到性に係る判断の誤り(取消事由3)

第3 当事者の主張

 1 取消事由1(法36条4項に係る判断の誤り)について

 〔原告の主張〕

  (1) 本件審決は、①本件関係式について、本願明細書【表1】に示された2つの試験(以下、併せて「本件試験」という。)の結果のみに基づいて普遍的な関係式が成立するものとは認められず、かつ、本件関係式が示す範囲であれば、所望の効果が得られると当業者において認識できる程度に具体例を開示して記載したものとも認められない、②本件試験において、本件関係式中のA、C、D、E及びYのうち、値が変化しているのはAとEのみであり、C、D及びYは固定値であるから、本件試験の結果は、C、D及びYをも変数とする本件関係式の導出の根拠となるものとは認められない、③本願明細書の発明の詳細な説明には、「内輪と中空軸との間の隙間」について明確な定義付けがなく、本件試験の結果において、どのような場合に「すきま有」又は「すきま無」と判定するのか不明である、④本願明細書の発明の詳細な説明には、本件試験の結果について、中空軸としてどのような材料を用いたのか、どの焼き入れ方法を用いたのか、その焼き入れの硬さはどの程度なのか、内輪の中空軸への締まり強さはどの程度なのか等の試験条件の記載がなく、本願明細書【表1】の数値及び隙間の有無の判定結果の意味するところが不明である、⑤本件試験の結果は2例のみであり、しかも、A、C、D、E及びYのうち、A及びEのみを変化させたものであって、A、C、D、E及びYの全てを変数とする本件関係式の正しさを支持するものとは認められない、などと判断した。

  (2) しかし、次のとおり、本件審決の判断は誤りである。

   ア 前記①の判断について

 (ア) 軸受装置の中空軸に内輪を嵌め、中空軸の軸端を屈曲させてかしめると、中空軸の硬化層以外の部分に残留変形が生じ、隙間が生ずる場合があるが、隙間が発生するのは、中空軸の硬化層の先端から中空軸の軸端のかしめ部分までであるから、中空軸と内輪とが嵌め合う長さを大きくした場合に、硬化層のかしめ側端部までの距離Xが一定であれば、中空軸の硬化層の先端から軸端のかしめ部分までの長さが大きくなり、隙間が発生しやすくなる。そのため、中空軸と内輪とが嵌め合う長さ(A-C-D)に比例して、硬化層のかしめ側端部までの距離Xを大きくする必要があり、この関係は、次の式(以下「①式」という。)で表される。

 X∝(A-C-D)

 (イ) 次に、中空軸と内輪とを嵌め合う部分の軸の厚さが大きくなっても、硬化層は内輪との接触面に摩耗が生じないようにするためのものであるから、所定の深さ(2.5㎜程度)で熱処理されていればよく、中空軸の厚さに合わせて硬化層の処理深さを変更する必要はない。逆に、中空軸の厚さが増加したことにより、中空軸の断面積が増加するので、かしめ時に中空軸に発生する応力が低下し、中空軸と内輪との嵌め合い部分に隙間を生じにくくなる。したがって、中空軸の厚さEに対する硬化層の処理深さYの比率を小さくした場合には、隙間が生じにくくなるので、硬化層の軸方向長さを短くしても隙間の発生を防止することができ、この関係は、次の式(以下「②式」という。)で表される。

 X∝Y/E

 (ウ) したがって、①式と②式を組み合わせて次の式(以下「③式」という。)を導き、同式を満たす範囲にかしめ側端部までの距離Xを設定することで、隙間を防止できると推定した。

 X∝(A-C-D)Y/E

 そして、本願明細書【表1】のとおり、嵌め合いの長さを長くした場合と内輪が嵌め合わされる中空軸の厚さを大きくした場合の二つの条件を選定し、③式が成立することの検証を行った結果、本件関係式(X≧(A-C-D)Y/E)を導くに至った。

 (エ) 以上のとおり、本件関係式は普遍的な関係を表すものであり、本件試験の結果から導いたものではない。本件試験は、本件関係式の成立を確認するために行ったものである。

 (オ) 被告の主張について

  a 被告は、本願明細書には本件関係式が普遍的なものであるとの記載はないと主張する。

 しかし、本願明細書【0034】には、「中空軸に硬化層を形成するとき、中空軸の軸方向長さが長いと、その分、硬化層の軸方向処理幅が長くなり」との記載があり、硬化層のかしめ側端部までの距離Xが中空軸の軸方向長さ(A-C-D)に比例することが示されている。また、本願明細書【0034】には、「中空軸の軸厚みが厚くなると、内輪からの荷重負担能力も増大する分、硬化層の深さは浅く済む。」との記載もあり、中空軸の軸厚みEが大きくなって、軸厚みEに対する硬化層の処理深さYの比率(Y/E)が小さくなると、かしめ時に中空軸に発生する応力が低下するので、中空軸の内輪からの荷重負担能力も増大し、硬化層のかしめ側端部までの距離Xの値を小さくしても済むことが示されている。このように、本件関係式を導く理論は、本願明細書【0034】に記載されており、この理論は普遍的なものであるから、これを数式で表現した本件関係式も普遍的なものである。

  b 次に、被告は、本願明細書【0034】の「本発明者らの実験と試算によると、(A-C-D):E=X:Yの式が成立し、この式よりX=(A-C-D)Y/Eの関係を導くことができることが確かめられている。」との記載によれば、本件関係式を導く過程に本件試験の結果が寄与していないとはいえない旨主張する。

 しかし、本願明細書【0034】の前記記載は、発明者らの試算によりX=(A-C-D)Y/Eの関係が成立することが予測され、この予測が本件試験により確かめられたことを意味するのであり、本件試験の結果から本件関係式が導かれたことを示すものではない。

  c また、被告は、本件試験の結果は、本件関係式と矛盾するものであって、本件試験から本件関係式の成立を確認することはできないと主張する。

 確かに、本件試験では、本件関係式により規定するXの範囲から外れたXの値についても、「すきま無」の結果となったものがあるが、本願発明は、かしめ加工を行っても内輪と中軸空との間の隙間を確実に無くすことができる硬化層の範囲を本件関係式により規定しているだけであり、本件関係式が規定するXの範囲から外れたXの値が確実に「すきま有」となることを保証するものではない。

  d さらに、被告は、X=(A-C-D)Y/Eを変形したY=X・E/(A-C-D)(以下「④式」という。)は、中空軸の軸厚みEが厚くなると、硬化層の深さYも深くなることを示しており、本願明細書【0034】の「中空軸の軸厚みが厚くなると、内輪からの荷重負担能力も増大する分、硬化層の深さは浅く済む。」との記載と矛盾すると主張する。

 しかし、本願明細書【0034】の前記記載は、中空軸の軸厚みが厚くなると、硬化層の深さの絶対的な値が小さくて済むということを意味するのでなく、硬化層の深さが中空軸の軸厚みに対して「相対的に」浅くて済むことを意味している。そして、中空軸の厚さEが大きくなることにより、これに対する硬化層の処理深さYの比率(Y/E)が小さくなる場合には、隙間が生じにくくなるから、Xの値を小さくしても隙間の発生を防止することができ、この関係が、②式で表されている。したがって、このような考えを数式で適格に表現するには、Y=X・E/(A-C-D)との式は妥当ではなく、中空軸の厚さEに対する硬化層の処理深さYの比率(Y/E)に着目した、X=(A-C-D)Y/Eの式が妥当する。したがって、中空軸の軸厚みEと硬化層の深さYとの関係は、本願明細書【0034】の前記記載と矛盾するものではない。

   イ 前記②の判断について

 前記アのとおり、本件試験は、本件関係式の成立を確認するために行ったものであり、その結果が本件関係式の導出の根拠となったものではない。

 なお、C及びDは、内輪に施された面取りの軸方向の長さであり、内輪の中空軸への嵌合に寄与しない領域の長さであるから、その値は重要なものではなく、これらを固定値として試験を行ったとしても、本件関係式の成立に影響しない。また、硬化層の処理深さYは、前記ア(ア)のとおり、所定の深さで熱処理されていればよく、中空軸の厚さに合わせて変更する必要はない。

   ウ 前記③の判断について

 (ア) 「内輪と中空軸との間の隙間」とは、文字通り、内輪と中空軸との間に発生する隙間のことであり、その定義は不明確ではない。

 (イ) 被告は、本願明細書では、隙間の定義が曖昧であるから、耐クリープ性に優れた軸受装置とするための構成及び条件について、十分な説明があるとはいえないと主張する。

 しかし、本件関係式の技術的意義は、軸受装置の耐クリープ性を優れたものとすることにあるのは明らかであるから、本願明細書に記載された「隙間」とは、肉眼で確認できる隙間であれ、高倍率の拡大鏡でしか確認できない隙間であれ、クリープの発生に影響する全ての隙間を意味するのであり、当業者であれば、本願明細書における「すきま有」又は「すきま無」が、クリープの発生に影響する隙間の有無を示していることを理解することができる。

   エ 前記④の判断について

 (ア) 前記アのとおり、本件試験は、本件関係式が成立することを確認したものにすぎず、本願発明を実施するために本件試験を行う必要はない。

 (イ) 仮に、本件試験が本願発明の実施のために必要な試験であったとしても、部材の材質やかしめ方法等の条件は、当業者が技術的常識の範囲で適宜選択できるから、本願明細書に試験条件を記載する必要はない。また、本願明細書【表1】の隙間の有無が、中空軸をかしめたときに中空軸に残留変形が生じて内輪と中空軸との間に隙間が生じているか否かを意味していることも明らかである。

   オ 前記⑤の判断について

 前記アのとおり、本件試験は、本件関係式が成立することを確認するために行われたのであって、本件関係式を導くために行われたものではない。

  (3) 小括

 以上のとおり、本願明細書の発明の詳細な説明の記載は、明確かつ十分なものであり、法36条4項に違反するとした本件審決の判断は誤りである。

 〔被告の主張〕

  (1) 前記①の判断について

   ア 原告は、本件関係式は普遍的な関係を表すものであり、本件試験の結果に基づいて導き出されたものではないと主張する。

   イ しかし、本願明細書には、本件関係式が普遍的なものであることの記載はない。かえって、本願明細書【0034】には、「本発明者らの実験と試算によると、(A-C-D):E=X:Yの式が成立し、この式よりX=(A-C-D)Y/Eの関係を導くことができることが確かめられている。」と記載されており、本件関係式を導く過程に本件試験の結果が寄与していないとは理解し難い。原告の主張は、本件審決の指摘に対する後付けの論拠にすぎない。

 仮に、本件試験が本件関係式の成立を確認するためのものであるとしても、本件試験の結果から同式の成立が確認することはできない。すなわち、本件関係式では、Xの上限値は「A-C-D」で表されるから、本願明細書【表1】の軸受①のケースでは、本件関係式の条件を満たす「X+D」の取り得る範囲は「8.0㎜ないし13.5mm」となり、軸受②のケースでは、「13.2㎜ないし17.5㎜」となるところ、同表では、軸受①のケースでは「15㎜」の場合に、軸受②のケースでは、「13㎜」及び「20㎜」の場合に、それぞれ「すきま無」と判定されている。このように、本件試験の結果は、本件関係式と矛盾しており、本件試験から本件関係式の成立を確認することはできない。  

  ウ また、本願明細書【0034】では、X=(A-C-D)Y/Eの式は、(A-C-D):E=X:Yとの関係から導かれたと記載されているところ、X=(A-C-D)Y/Eの式を変形してなるY=X・E/(A-C-D)の式(④式)は、中空軸の軸厚みEが厚くなると、硬化層の深さYも深くなることを示している。しかるに、中空軸の軸厚みEと硬化層の深さYとのこのような関係は、本願明細書【0034】の「中空軸の軸厚みが厚くなると、内輪からの荷重負担能力も増大する分、硬化層の深さは浅く済む。」との記載と矛盾する。(A-C-D):E=X:Yとの関係は、単に硬化層の深さYと硬化層のかしめ側端部までの長さXとの比と、中空軸の軸厚みEと嵌合領域長さ(A-C-D)との比について、比例関係が成り立つと仮定し、その仮定の下で、本件試験により本件関係式に意味を持たせようとしたにすぎない。本件関係式や④式は、物理現象を正確に表したものではなく、技術的意義を有するものではない。  

 (2) 前記②の判断について  

原告は、本件試験は本件関係式の成立を確認するために行なったものであるなどと主張するが、前記(1)のとおり、原告の主張は、本件審決の指摘に対する後付けの論拠にすぎない。

 また、仮に、本件試験が本件関係式の成立の確認のために行ったものであるとしても、本件試験の結果から同式の成立を確認することはできない。

  (3) 前記③の判断について

   ア 原告は、「内輪と中空軸との間の隙間」の定義は不明確ではないと主張する。

   イ しかし、隙間には、肉眼で確認できるものもあれば、高倍率の拡大鏡でしか確認できないものもあり、どのような場合に「すきま無」又は「すきま有」とするのか不明である。本願発明は、「中空軸の軸端をかしめたときに内輪と中空軸との間に隙間が発生して耐クリープ性に劣ることがある。」(【0005】)との課題を解決し、「中空軸の軸端を内輪のかしめ側外端面にかしめつけても内輪との間に隙間が発生するようなことがなく耐クリープ性に優れたものとなる。」(【0047】)との効果を奏するものであり、隙間の有無は耐クリープ性と密接な関係を有するから、このような曖昧な定義では、耐クリープ性に優れたものとするための構成及び条件について十分な説明があるとはいえず、隙間の有無の定義が曖昧なものである以上、本件関係式の技術的意義も不明確なものといわざるを得ない。

  (4) 前記④の判断について

   ア 原告は、本件試験はこれに基づいて本件関係式を導いたものではなく、同式が成立することを確認したものにすぎないと主張するが、前記(1)のとおり、原告の主張は、本件審決の指摘に対する後付けの論拠にすぎない。

   イ また、原告は、本願発明を実施するためには、本件試験を実施する必要はないとも主張するが、本件関係式を導く過程において、試験結果が寄与している以上、原告の主張は本末転倒である。

   ウ さらに、原告は、本件試験が本願発明を実施するために必要な試験であったとしても、本願明細書に試験条件を記載することは必要でなく、当業者が技術的常識の範囲において試験条件を適宜選択できるなどと主張する。

 しかし、試験条件には様々なものが想定され、それらの試験条件の全ての組合せに対して普遍的に同じ結果となることが確認できているわけではない以上、本願発明を実施するための要件として試験条件を明記することは必須であり、そうでなければ、当業者が追試をして本件関係式の妥当性や本願発明の効果を確認することはできない。

  (5) 前記⑤の判断について

 原告は、本件試験は本件関係式が成立することを確認するために行われたものであると主張するが、前記(1)のとおり、原告の主張は失当である。

  (6) 小括

 よって、法36条4項に係る本件審決の判断に誤りはない。

 2 取消事由2(特許法36条6項2号に係る判断の誤り)について

 〔原告の主張〕

  (1) 本件審決は、特許請求の範囲の記載は技術的意義が不明であり、明確性の要件を満たしていないと判断した。

 しかし、前記1〔原告の主張〕のとおり、本件関係式の技術的意義は明らかであり、本願発明が内輪と中空軸との間に隙間を発生させないという効果を奏することや、その隙間の意味も明らかである。

  (2) よって、特許法36条6項2号に係る本件審決の判断は誤りである。

 〔被告の主張〕

  (1) 前記1〔被告の主張〕のとおり、本件関係式の技術的意義は明らかでない。

  (2) よって、特許法36条6項2号に係る本件審決の判断に誤りはない。

 3 取消事由3(本願発明の容易想到性に係る判断の誤り)について

 〔原告の主張〕

  (1) 本願発明の技術的思想について

   ア 本件審決は、本願発明と引用発明との相違点として、本願発明は硬化層のかしめ側端部の位置を本件関係式に基づいて規定するのに対し、引用発明は同式に基づいて硬化層の範囲を明確に規定していない点と認定している。

 しかし、本願発明では、硬化層のかしめ側端部までの距離Xの範囲を定めるに当たり、軸受装置の軸方向の寸法(A、C、D)だけでなく、軸受装置の径方向の寸法(E、Y)をも考慮している。引用発明は、本件関係式に基づいて硬化層の範囲を規定していないだけでなく、径方向の寸法の変更に応じて硬化層のかしめ側端部までの距離Xの範囲を変更させるという本願発明の根本的な技術的思想を備えていない。これは、そもそも、引用発明には、かしめによって未硬化部が塑性変形を生じて隙間が生ずるという本願発明が解決する課題の前提がないからである。

   イ また、本件審決は、引用発明では、引用例の図9でハブに形成されている硬化層の範囲からみて、焼き入れ硬化層のかしめ側端部の位置が、中空軸の転がり軸受嵌合領域において、かしめ側端面相当位置の手前までの範囲を満たしていることは明らかであると判断している。

 しかし、引用例では、図9を含めて、焼き入れ硬化層のかしめ側端部までの距離、内輪の軸方向幅、ハブの厚さ、焼き入れ硬化層の処理深さ等の寸法が本件関係式を満たしていることは全く開示されていない。

 したがって、引用発明における硬化層の範囲が、本願発明が規定する硬化層の範囲を満たしているという本件審決の判断は妥当でない。

  (2) 本願発明の技術的課題について

 本件審決は、本願発明の技術的課題に関し、高速回転ユニットにおいて、意図しない部材間の隙間の形成を避けるようにすることは、振動、騒音防止、ユニットの破損防止等の観点から、当業者が普通に考慮することであると判断している。

 しかし、本願発明では、「硬化層の軸方向端部の位置を不適正に行うと、中空軸の軸端をかしめたときに内輪と中空軸との間に隙間が発生して耐クリープ性に劣ることがある。」(【0005】)という、車両用ハブユニットに特有の課題を見出している。本件出願当時、高速回転ユニットにおいて、隙間なく嵌め合せたり、かしめたりすることが当業者に認識されていた課題であったとしても、車両用ハブユニットのハブホイールの中空軸の軸端をかしめたときに内輪と中空軸との間に隙間が発生することや、この隙間の存在がクリープ発生に影響することは、当業者に認識されておらず、引用例にも記載がない。

 また、引用例には、軸受装置の各部の径方向の寸法が変更されるという前提がないから、前記課題の解決のために本願発明の技術的思想を導く動機付けも示唆されていない。

  (3) 容易想到性について

 以上のとおり、本願発明は、ハブホイールの中空軸の軸端をかしめたときに内輪と中空軸との間に隙間が発生する等の課題を解決するため、新たな解決手段として、中空軸の各部の軸方向の寸法だけでなく径方向の寸法をも考慮して、硬化層のかしめ側端部までの距離Xの範囲を定めたものであり、当業者が引用発明に基づき容易に想到し得たものではない。

  (4) 小括

 よって、本願発明の容易想到性に係る本件審決の判断は誤りである。

 〔被告の主張〕

  (1) 本願発明の技術的思想について

   ア 原告は、引用発明にはかしめによって未硬化部が塑性変形を生じて隙間が生じるという本願発明の前提がないと主張する。

 しかし、引用例【0024】には、「円筒部をかしめ広げてかしめ部とする際に、円筒部の硬度がHv300を越えていると、かしめ部にクラックが発生したり、かしめが不十分となってかしめ部と内輪とが密着しなくなってハブに対する内輪の締結力が小さくなったりする。」と記載されているように、引用例にも、かしめによって隙間が生じることが記載されている。

   イ また、原告は、引用発明は径方向の寸法の変更に応じて硬化層のかしめ側端部までの距離の範囲を変更させるという本願発明の根本的な技術的思想を全く備えていないと主張する。

 しかし、前記1〔被告の主張〕のとおり、原告が主張する本件関係式に基づく技術的思想には技術的意義がないから、原告の主張は前提において誤りである。

   ウ さらに、原告は、引用発明の硬化層の範囲が本願発明が規定する硬化層の範囲を満たしているという本件審決の判断は妥当でないと主張する。

 しかし、中空軸に硬化層を設けるのは、軸受荷重に対応するためであり、中空軸の端部をかしめる際にかしめ広げる箇所にその変形を妨げるような硬化層は設けないから、硬化層が設けられる範囲は、必然的に軸受の内輪と中空軸が接する範囲で、かつ、かしめの際に中空軸が塑性変形しない範囲となるところ、引用例【0022】には、「焼き入れ硬化層の内端の軸方向位置は、内輪の周囲に配置した複数個の転動体の中心の軸方向位置よりも内側で、かしめ部の基端の軸方向位置よりも外側とする。」と記載されており、引用発明における硬化層の範囲も、軸受の内輪と中空軸が接する範囲で、かつ、かしめの際に中空軸が塑性変形しない範囲となっている。また、本件関係式の左辺((A-C-D)Y/E)は、硬化層の深さYが中空軸の軸厚みEを越えることはないから、軸受の内輪と中空軸とが接する範囲を示すものであり、一方、請求項1の「かしめ側端面相当位置の手前まで範囲に硬化層が形成され」との記載からして、Xの上限は、かしめの際に中空軸が変形しない範囲までとなる。そうすると、本願発明と引用発明とでは、軸受の内輪と中空軸とが接する範囲で、かつ、かしめの際に中空軸が塑性変形しない範囲に硬化層を設けることで一致しており、実際、引用例の図9には、本件関係式を満たす硬化層の範囲が開示されている。

  (2) 本願発明の技術的課題について

 原告は、車両用ハブユニットのハブホイールの中空軸の軸端をかしめたときに内輪と中空軸との間に隙間が発生することやこの隙間の存在がクリープ発生に影響することは、本件出願当時、当業者に認識されていないなどと主張する。

 しかし、車両用ハブユニットにおいて、かしめ部による内輪の支持強度を確保する必要性から、中空軸の軸端をかしめる際に軸受の内輪と中空軸との間に隙間が生じないようにすることは、当業者が普通に留意すべき技術常識である。引用例【0024】の前記記載でも、車両用ハブユニットのハブホイールの中空軸の軸端をかしめたときに、かしめが不十分であると内輪と中空軸との間に隙間が発生することが示されており、引用発明においても、車両用ハブユニットのハブホイールの中空軸の軸端をかしめたときに内輪と中空軸との間に隙間が発生するとの課題を有している。

 また、部材間に発生した隙間によりクリープが発生しやすくなることは、当該技術分野において技術常識であり(乙1、2)、引用例【0035】にも、「内輪を構成する材料とハブを構成する材料は、弾性係数がほぼ同じであるため、S3<S2bとすれば、かしめ加工中の弾性変形量はハブよりも内輪の方が大きくなり、内輪に十分な圧縮荷重を付与し続けて、内輪がハブに対して回転するクリープの発生を有効に防止できる。」との記載がある。

 したがって、引用発明も、実質的には、内輪と中空軸との間に発生した隙間によるクリープの発生を防止するとの課題を有しているものである。

  (3) 容易想到性について

 以上によれば、本願発明は、当業者が引用発明に基づき容易に想到し得たものである。

  (4) 小括

 よって、本願発明の容易想到性に係る本件審決の判断に誤りはない。

第4 当裁判所の判断

 1 取消事由1(法36条4項に係る判断の誤り)について

  (1) 本願明細書の記載について

 本願明細書(甲1の2、甲5、8)には、本願発明について、概略、次の記載がある。

   ア 本願発明は、車両用ハブユニット等の軸受装置に関する(【0001】)。

   イ 車両用ハブユニットには、ハブホイールの軸部に転がり軸受の内輪を圧入により取り付け、軸部の軸端を径方向外向きに屈曲させて内輪の端面にかしめつけて塑性変形させ、当該塑性変形させた部分をかしめ部として内輪の端面に押し付けることで軸受に対する抜け止めと予圧付与とを行うものがあり(【0002】)、そこでは、ハブホイールの軸部を軸受荷重の負担に適応した構造とするため、外周に焼き入れ等の熱による硬化層を形成する一方で、軸部の軸端についてはかしめ作業のために未硬化とされている(【0003】)。このようなハブユニットでは、従来、硬化層の形成範囲をある程度規定していたが、硬化層の軸方向かしめ側端部の位置を明確に規定していなかったため、硬化処理に際し、硬化層の軸方向かしめ側端部の位置が軸方向外端寄りあるいは内端寄りの不適正な位置となる傾向があり(【0004】)、その場合、中空軸の軸端をかしめたときに内輪と中空軸との間に隙間が発生して耐クリープ性に劣ることがあるため、前もってハブホイールの中空軸内径側にかしめ補助治具を装入して隙間の発生を防止するなど、相当な工数がかかるものとなっている(【0005】)。

   ウ 本願発明は、中空軸の外周に形成した硬化層の軸方向かしめ側端部の位置を適正に管理可能なものとして、組立工数や時間を少なくして量産性を上げる軸受装置を提供することを課題とするものであり(【0007】)、この課題を解決するため、本願発明では、硬化層のかしめ側端部の位置について、少なくとも中空軸と転がり軸受との嵌合領域長さ及び軸厚みとの所定の相対関係に基づいて定められる位置とかしめによる屈曲始点との間に規定している(【0008】)。

 これにより、ハブホイールの軸部が中空軸構造である場合にその軸端を内輪の端面にかしめつけてもその内輪と中空軸との間に隙間が発生するようなことがなくなり、耐クリープ性に優れたものになるとともに、従来のような手数のかかる工数が不要となり、量産性に適した構造となる(【0013】、【0014】)。

   エ 本実施形態では、硬化層のかしめ側端部の位置Xを、本件関係式で示される範囲に規定している(【0033】)。

 本件関係式において、左辺の(A-C-D)Y/Eは、中空軸がかしめ変形した際の中空軸と内輪との嵌合領域長さを(A-C-D)㎜、中空軸の軸厚みをE㎜、硬化層のかしめ側終端部の位置をX㎜、硬化層の硬化処理深さをY㎜としたとき、本発明者らの実験と試算によると、(A-C-D):E=X:Yの式が成立し、この式よりX=(A-C-D)Y/Eの関係を導くことができることが確かめられている。

 【表1】略

 つまり、中空軸に硬化層を形成するとき、中空軸の軸方向長さが長いと、その分、硬化層の軸方向処理幅が長くなり、また、中空軸の軸厚みが厚くなると、内輪からの荷重負担能力も増大する分、硬化層の深さは浅く済む(【0034】)。

 本件関係式の左辺の(A-C-D)Y/Eの項から、硬化層のかしめ側終端部の位置Xが、中空軸と内輪との嵌合領域長さと硬化処理深さとに比例し、中空軸の軸厚みに反比例することになる(【0035】)。

  (2) 本願明細書の法36条4項適合性について

   ア 本願発明は、硬化層のかしめ側端部の位置を本件関係式に基づいて規定することにより、内輪と中空軸との間に隙間が発生しないようにすることを特徴とする軸受装置(【請求項1】)であるところ、本願明細書の前記(1)エの記載からすると、本願発明の発明者らは、実験(本件試験)と試算によりX=(A-C-D)Y/Eとの式を求め、同式から本件関係式を導いたものであると認められる。

   イ これに対し、原告は、本件関係式は本件試験の結果から導いたものではなく、中空軸と内輪とが嵌め合う長さ(A-C-D)と硬化層のかしめ側端部までの距離Xを比例させるとの考えを①式(X∝(A-C-D))で表し、中空軸の厚さEに対する硬化層の処理深さYの比率(Y/E)を小さくすると、硬化層のかしめ側端部までの距離Xを短くしても隙間の発生を防止することができるとの考えを②式(X∝Y/E)で表した上、①式と②式を組み合わせて③式(X∝(A-C-D)Y/E)を求め、同式から本件関係式を導いたものであって、本願明細書【0034】の「中空軸に硬化層を形成するとき、中空軸の軸方向長さが長いと、その分、硬化層の軸方向処理幅が長くなり」との記載は、硬化層のかしめ側端部までの距離Xが中空軸の軸方向長さ(A-C-D)に比例することを示し、また、本願明細書【0034】の「中空軸の軸厚みが厚くなると、内輪からの荷重負担能力も増大する分、硬化層の深さは浅く済む。」との記載は、軸厚みEに対する硬化層の処理深さYの比率(Y/E)が小さくなった場合には、中空軸に発生する応力が低下し、中空軸の荷重負担能力も増大することで、Xの値を小さくしても済むことを示したものであるなどと主張する。

 確かに、軸受装置の中空軸に内輪を嵌め、中空軸の軸端を屈曲させてかしめる場合に、中空軸と内輪との嵌め合い部の硬化層以外の部分に残留変形が生じて隙間が発生する可能性があると考えられるから、当業者であれば、①式の関係を想定することができるものといえる。また、中空軸の厚さが増加すると、中空軸の断面積の増加により、かしめ時に中空軸に発生する応力が低下し、中空軸と内輪との嵌め合い部分に隙間が発生しにくくなると考えられるから、当業者は、X∝1/E(XはEに反比例する。)の関係についても想定することができるといえる。

 しかしながら、硬化層のかしめ側端部までの距離Xについて、硬化層の処理深さYの値を考慮すべき理由は明らかでなく、あえて②式と関係付けることの根拠は見出し難い。

 また、仮に、原告が主張するとおり、中空軸の厚さに合わせて硬化層の処理深さを変更する必要がないとした場合には、②式の成立を認めた上で、①式及び②式から③式を求める余地があるとしても、③式からは左辺のXと右辺の(A-C-D)Y/Eについて比例関係が成立することは理解できるものの、同式から本件関係式が理論上当然に導かれるということはできない。

 (イ) また、引用例【0035】にも、「内輪のうち、第二の内輪軌道よりも外側寄り部分の断面積S3と、当該部分におけるハブの断面積S2bとの関係を、S3<S2bとすれば、かしめ加工中の弾性変形量はハブよりも内輪の方が大きくなるから、内輪に十分な圧縮荷重を付与し続け、内輪がハブに対して回転するクリープの発生を有効に防止できる。」との記載があるように、クリープは、押し付け荷重が十分でない場合に結合強度が不足することにより発生するものであるし、かしめ時の弾性変形量には中空軸の材質も影響を及ぼすものであるから、内輪と中空軸との間に発生する隙間については、中空軸と内輪とが嵌め合う長さ(A-C-D)や中空軸の厚さだけでなく、中空軸の材質や硬度、かしめるための荷重の大きさ等も影響することは当業者の技術常識であるということができる。

 しかるに、本願明細書には、本件試験におけるこれらの試験条件が記載されていないから、本件試験は、実験としての信頼性に乏しいものといわざるを得ない。

 また、仮に、本件試験における中空軸の材質や硬度、かしめるための荷重の大きさ等の条件が、車両用のハブユニット等の軸受装置として通常用いられている程度のものに設定されていたとしても、本件試験では、内輪の軸方向幅A及び中空軸の厚さEの所定の組合せについて行った実験が2例(軸受①ケースと軸受②ケース)示されているのみであり、しかも、本件関係式では、5つの変数があるにもかかわらず、本件試験では、上記A及びEを変化させているにすぎず、他の変数である内輪のかしめ側の外端面における軸方向面取長さC、内輪の反かしめ側の外端面における軸方向面取長さD及び硬化処理深さYについては、全く考慮されていないものであるから、本件関係式の普遍性を裏付けるための実験として十分なものということはできない。

   エ 以上のとおり、本願明細書の発明の詳細な説明の記載には、当業者の技術常識を踏まえても、硬化層のかしめ側端部の位置を本件関係式に基づいて規定することにより、内輪と中空軸との間に普遍的に隙間が発生しないこととなる理由が明らかにされておらず、当業者が本願発明の技術上の意義を理解するために必要な事項が記載されていないものといわざるを得ない。

 ところで、法36条4項において、明細書の発明の詳細な説明について、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載しなければならないと規定した趣旨は、発明の詳細な説明に基づいて当業者が実施できない発明に対して独占的な権利を付与することは、発明を公開したことの代償として独占権を付与するという特許制度の趣旨に反する結果を生ずるためであるところ、本願明細書の発明の詳細な説明には、当業者が本願発明の技術上の意義を理解するために必要な事項の記載がない以上、当業者は、出願時の技術水準に照らしても、硬化層のかしめ側端部の位置を本件関係式に基づいて規定することにより内輪と中空軸との間に普遍的に隙間が発生しないという技術上の意義を有するものとしての本願発明を実施することができないのであるから、その記載は、発明の詳細な説明に基づいて当業者が当該発明を実施できることを求めるという法36条4項の上記趣旨に適合しないものである。

 したがって、このような本願明細書の発明の詳細な説明の記載について、通常の知識を有する者が発明の実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載したものとはいえないとして、法36条4項の要件を満たさないと判断した本件審決に誤りがあるということはできない。

  (3) 小括

 よって、取消事由1は理由がない。

 2 結論

 以上の次第であるから、その余の取消事由について判断するまでもなく、原告の請求は棄却されるべきものである。

事件の表示

 特願2001-156765号「軸受装置」拒絶査定不服審判事件〔平成14年3月27日出願公開、特開2002-89572号〕について、次のとおり審決する。

結論

 本件審判の請求は、成り立たない。

理由

第1 手続の経緯

 本願は、平成13年5月25日(優先権主張 平成12年7月10日)の出願であって、平成22年3月2日付けで拒絶査定がなされ、これに対し、平成22年5月25日に拒絶査定不服審判の請求がなされるとともに、明細書についての手続補正がなされたものである。

第2 平成22年5月25日付け手続補正の目的 

 平成22年5月25日付け手続補正は明細書を補正するものであって、その特許請求の範囲に係る補正は、補正前(平成22年2月8日付け手続補正)の、

「【請求項1】中空軸の外周に転がり軸受の内輪を外嵌し、前記中空軸の軸端を径方向外向きに屈曲させて前記転がり軸受の内輪の外端面にかしめつけて、転がり軸受に対する抜け止めと予圧付与とを行う軸受装置であって、

 前記中空軸の転がり軸受嵌合領域において、前記内輪の反かしめ側端面相当位置からかしめ側端面相当位置の手前までの範囲に硬化層が形成され、また前記かしめ側端面相当位置の手前から前記中空軸の軸端までの範囲が未硬化とされており、

 前記硬化層のかしめ側端部の位置を関係式(1)に基づいて規定することにより、内輪と中空軸との間に隙間が発生しないようにされていることを特徴とする軸受装置。

(A-C-D)Y/E≦X<(A-C) … (1)

 前記(1)式において、内輪の軸方向幅をA、内輪のかしめ側の外端面における軸方向面取長さをC、内輪の反かしめ側の外端面における軸方向面取長さをD、中空軸の厚さをE、面取長さDの位置より前記硬化層のかしめ側端部までの距離をX、硬化処理深さをY(<E)で示す。

【請求項2】請求項1の軸受装置において、中空軸が、ハブホイールであり、転がり軸受が複列外向きのアンギュラ玉軸受もしくは複列外向きの円すいころ軸受で有る事を特徴とする軸受装置。」を、

「【請求項1】中空軸の外周に転がり軸受の内輪を外嵌し、前記中空軸の軸端を径方向外向きに屈曲させて前記転がり軸受の内輪の外端面にかしめつけて、転がり軸受に対する抜け止めと予圧付与とを行う軸受装置であって、

 前記中空軸の転がり軸受嵌合領域において、前記内輪の反かしめ側端面相当位置からかしめ側端面相当位置の手前までの範囲に硬化層が形成され、また前記かしめ側端面相当位置の手前から前記中空軸の軸端までの範囲が未硬化とされており、

 前記硬化層のかしめ側端部の位置を関係式(1)に基づいて規定することにより、内輪と中空軸との間に隙間が発生しないようにされていることを特徴とする軸受装置。

(A-C-D)Y/E≦X  …(1)

 前記(1)式において、内輪の軸方向幅をA、内輪のかしめ側の外端面における軸方向面取長さをC、内輪の反かしめ側の外端面における軸方向面取長さをD、中空軸の厚さをE、面取長さDの位置より前記硬化層のかしめ側端部までの距離をX、硬化処理深さをY(<E)で示す。(下線部は補正箇所を示す。)

【請求項2】請求項1の軸受装置において、中空軸が、ハブホイールであり、転がり軸受が複列外向きのアンギュラ玉軸受もしくは複列外向きの円すいころ軸受で有る事を特徴とする軸受装置。」と補正するものである。

 すなわち、平成22年5月25日付け手続補正は、補正前の請求項1に係る発明の発明特定事項である、内輪の反かしめ側の外端面における軸方向面取長さDの位置より硬化層のかしめ側端部までの距離「X」の範囲を表す式「(A-C-D)Y/E≦X<(A-C)」の「<(A-C)」を削除し「(A-C-D)Y/E≦X」とするものである。

 補正前の【請求項1】の、硬化層が形成される範囲に関する「前記中空軸の転がり軸受嵌合領域において、前記内輪の反かしめ側端面相当位置からかしめ側端面相当位置の手前までの範囲に硬化層が形成され」るとの記載は、「X」が取り得る範囲のかしめ側の端が「中空軸の転がり軸受嵌合領域」内にあることを示しており、一方、補正前の「X」の範囲を表す式「(A-C-D)Y/E≦X<(A-C)」の「X<(A-C)」は、「X」が取り得る範囲のかしめ側の端が「中空軸の転がり軸受嵌合領域」外にあることも含むものであり、矛盾するものである。

 そうすると、平成22年5月25日付け手続補正は、内輪の反かしめ側の外端面における軸方向面取長さの位置より硬化層のかしめ側端部までの距離「X」についての発明特定事項を一部削除するものであるものの、上記矛盾を解消するための、明りょうでない記載の釈明を目的とする補正と認められる。

 したがって、平成22年5月25日付け手続補正は、平成18年法律第55号改正附則第3条第1項によりなお従前の例によるとされる同法による改正前の特許法第17条の2第4項第4号に掲げる明りょうでない記載の釈明を目的とする、適法な補正であるといえる。

第3 本願発明について

1.本願発明

 平成22年5月25日付けの手続補正は、上記の通り適法な補正であるので、本願の請求項1、2に係る発明は、平成22年2月8日付け及び平成22年5月25日付け手続補正書により補正された特許請求の範囲の請求項1、2に記載された事項により特定されるとおりのものであると認められるところ、その請求項1に係る発明(以下、「本願発明」という。)は、以下の通りのものである。

「中空軸の外周に転がり軸受の内輪を外嵌し、前記中空軸の軸端を径方向外向きに屈曲させて前記転がり軸受の内輪の外端面にかしめつけて、転がり軸受に対する抜け止めと予圧付与とを行う軸受装置であって、

 前記中空軸の転がり軸受嵌合領域において、前記内輪の反かしめ側端面相当位置からかしめ側端面相当位置の手前までの範囲に硬化層が形成され、また前記かしめ側端面相当位置の手前から前記中空軸の軸端までの範囲が未硬化とされており、

 前記硬化層のかしめ側端部の位置を関係式(1)に基づいて規定することにより、内輪と中空軸との間に隙間が発生しないようにされていることを特徴とする軸受装置。

(A-C-D)Y/E≦X …(1)

 前記(1)式において、内輪の軸方向幅をA、内輪のかしめ側の外端面における軸方向面取長さをC、内輪の反かしめ側の外端面における軸方向面取長さをD、中空軸の厚さをE、面取長さDの位置より前記硬化層のかしめ側端部までの距離をX、硬化処理深さをY(<E)で示す。」

第4 原査定の理由

 一方、原査定の拒絶の理由は、概略、次の通りである。

1.理由1

 この出願は、発明の詳細な説明の記載が下記の点で、特許法第36条第4項に規定する要件を満たしていない。

               記

 本願明細書の発明の詳細な説明の表1には、A、C、D、E、Yのパラメータのセットについて2つの例を提示し、この例においてXの値を変化させた場合の試験結果が示されているのみであり、補正前の請求項1で特定された関係式の技術的意義が不明である。

経済産業省令で定めるところによる記載がされていない。

2.理由2

 この出願は、特許請求の範囲の記載が下記の点で、特許法第36条第6項第2号に規定する要件を満たしていない。

               記

理解することができない。

 よって、補正前の請求項1及び2は明確でない。

3.理由3

 補正前の請求項1及び2は、当業者が下記の刊行物に記載された発明に基づいて容易に発明をすることができたものであるから、特許法第29条第2項の規定により特許を受けることができないものである。

 刊行物:特開平11-129703号公報

第5 当審の判断

 原査定の拒絶の理由1ないし3について、本願発明に基づいて検討する。

1.理由1及び理由2について

 関係式「(A-C-D)Y/E≦X」に関して、本願明細書の発明の詳細な説明の段落【0034】の表1には、A、C、D、E、Yの値について2つの例を提示し、この例においてXの値を変化させた場合の内輪と中空軸との間の隙間の有無を表す試験結果が示されている。

 しかし、2つの試験結果のみに基づいて普遍的な関係式が成立するものとは認められず、かつ、その関係式が示す範囲であれば、所望の効果が得られると当業者において認識できる程度に、具体例を開示して記載したものとも認められない。しかも、A、C、D、E、Yのうち、値が変化しているのはAとEのみでC、D、Yは固定値であり、よって、表1の試験結果はC、D、Yをも変数とする関係式「(A-C-D)Y/E≦X」の導出の根拠となるものとは認められない。

 また、本願明細書の発明の詳細な説明には、「内輪と中空軸との間の隙間」について明確な定義づけが成されておらず、段落【0034】の表1の試験結果において、どのような場合に「すきま無」「すきま有」とするものであるのかが不明である。

 さらに、本願明細書の発明の詳細な説明には、段落【0034】の表1の試験結果について、中空軸としてどのような材料を用いたのか、どの焼き入れ方法を用いたのか、その焼き入れ硬さはどの程度なのか、内輪の中空軸への締まり強さはどの程度なのか、等の試験条件についての記載がなく、表1の数値、及びすきまの有り無しの判定結果の意味するところが不明である。

 なお、審判請求人は、当審における審尋に対する平成22年12月16日付けの回答書において、「審査官は、各パラメータを変化させた場合にも同じ関係式によって同様の効果が得られるということが不明である、と指摘していますが、本願発明において、上記のように、(1)式の基となる(A-C-D):E=X:Yの比例式は推論により成立するもので、実験データは、上記比例式もしくは(1)式の正しさの主張を支持するものであれば十分ではないか、と考えます。

ついて、関係式(A-C-D)Y/E≦Xを満たす場合に隙間発生防止効果が得られるという技術的意義を有することは明らかであります。」と主張している。

 しかし、本願明細書の段落【0034】の表1の試験結果は2例のみであり、しかもA、C、D、E、YのうちA、Eのみを変化させたものに過ぎず、A、C、D、E、Yのすべてを変数とする上記比例式もしくは(1)式の正しさを支持するものとは認められない。

 したがって、本願明細書の発明の詳細な説明は、当業者がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載したものとはいえず、また、特許請求の範囲が明確に記載されたものとはいえず、特許法第36条第4項、及び第36条第6項2号に規定する要件を満たしていないので、特許を受けることができない。

2.理由3について

(1)本願発明

 本願発明は、上記第3の1.に記載したとおりである。

(2)引用例の記載事項

 原査定の拒絶の理由に引用された、本願の出願前に頒布された刊行物である特開平11-129703号公報(以下、「引用例」という。)には、「車輪支持用転がり軸受ユニット」に関して、図面(主に図9)とともに次の事項が記載されている。

ア.「【特許請求の範囲】

 【請求項1】一端部外周面に第一のフランジを、中間部外周面に第一の内輪軌道を、それぞれ形成したハブと、このハブの他端部に形成された、上記第一の内輪軌道を形成した部分よりも外径寸法が小さくなった段部と、外周面に第二の内輪軌道を形成して上記段部に外嵌した内輪と、内周面に上記第一の内輪軌道に対向する第一の外輪軌道及び上記第二の内輪軌道に対向する第二の外輪軌道を、外周面に第二のフランジを、それぞれ形成した外輪と、上記第一、第二の内輪軌道と上記第一、第二の外輪軌道との間に、それぞれ複数個ずつ設けられた転動体とを備え、上記ハブの他端部で少なくとも上記段部に外嵌した内輪よりも突出した部分に形成した円筒部を直径方向外方にかしめ広げる事で形成したかしめ部により、上記段部に外嵌した内輪をこの段部の段差面に向け抑え付けて、この段部に外嵌した内輪を上記ハブに結合固定した車輪支持用転がり軸受ユニットに於いて、上記ハブは炭素の含有量が0.45重量%以上の炭素鋼製であり、少なくとも上記第一の内輪軌道部分を焼き入れ処理により硬化させると共に少なくとも上記円筒部には上記焼き入れ処理を施さずに生のままとし、上記内輪は高炭素鋼製で心部まで焼き入れ硬化させている事を特徴とする車輪支持用転がり軸受ユニット。」

イ.「【0022】尚、上記斜格子で示した焼き入れ硬化層の内端の軸方向位置(図1のイ点)は、上記内輪3の周囲に配置した複数個の転動体5の中心の軸方向位置(図1のロ点)よりも内側(図1の右側)で、後述するかしめ部19の基端(かしめ部の外径が段部8の外径よりも大きくなり始める部分)の軸方向位置(図1のハ点)よりも外側(図1の左側)とする。上記焼き入れ硬化層の内端位置をこの様に規制する理由は、上記段部8の外周面部分に存在する焼き入れ硬化層の表面積をできるだけ広くし、しかも上記かしめ部19の加工を容易にすると共に、上記焼き入れ硬化層の存在に基づいてこのかしめ部19に亀裂等の損傷が発生しない様にする為である。尚、上述の様な焼き入れ硬化層は、必要とする部分毎に不連続に形成しても良いが、図1に示した本例の様に、隣り合う焼き入れ硬化層同士を連続して形成すれば、ハブ2bの強度及び耐久性の向上を図れる。」

ウ.「【0047】この為に本例の場合には、ハブ2cを円筒状に形成すると共に、このハブ2cの内周面に雌スプライン部35を形成している。そして、この雌スプライン部35に、等速ジョイント36に付属で、外周面に雄スプライン部を形成した駆動軸37を挿入している。一方、上記ハブ2cの内端部外周面に形成した段部8には内輪3を外嵌しており、この内輪3の内端面内径寄り部分に段部38を形成している。そして、上記ハブ2cの内端部に形成したかしめ部19を、上記段部38に向けかしめ付けている。この状態で上記かしめ部19は、上記内輪3の内端面よりも内方に突出する事はない。従って、上記等速ジョイント36の本体部分39の外端面は、上記内輪3の内端面に当接している。この様に、本体部分39の外端面を内輪3の内端面に当接させた状態で、上記駆動軸37の先端部で上記ハブ2cの外端面よりも突出した部分にナット40を螺合し、更に緊締する事により、上記内輪3とハブ2cとを、軸方向に亙り強く挟持している。」

エ.図9の記載から、ハブ2cに形成される焼き入れ硬化層の範囲は、ハブ2cの転がり軸受嵌合領域において、内輪3の反かしめ側端面相当位置から、かしめ側端面相当位置の手前までであることがわかる。

 これら記載事項を総合し、本願発明の記載ぶりに倣って整理すると、引用例には、次の発明(以下、「引用発明」という。)が記載されていると認められる。

「ハブ2cの外周に転がり軸受の内輪3を外嵌し、前記ハブ2cの軸端を径方向外向きに屈曲させて前記転がり軸受の内輪3の外端面にかしめつけて、転がり軸受に対する抜け止めと予圧付与とを行う車輪支持用転がり軸受ユニットであって、

 前記ハブ2cの転がり軸受嵌合領域において、前記内輪3の反かしめ側端面相当位置からかしめ側端面相当位置の手前までの範囲に焼き入れ硬化層が形成され、また前記かしめ側端面相当位置の手前から前記ハブ2cの軸端までの範囲が未硬化とされている車輪支持用転がり軸受ユニット。」

(3)対比

 そこで、本願発明と引用発明とを対比すると、後者の「ハブ2c」は、その意味又は機能などからみて、前者の「中空軸」に相当し、以下同様に、「車輪支持用転がり軸受ユニット」は「軸受装置」に、「内輪3」は「内輪」に、「焼き入れ硬化層」は「硬化層」にそれぞれ相当する。したがって、本願発明の用語を用いて表現すると、両者は、

[一致点]

 「中空軸の外周に転がり軸受の内輪を外嵌し、前記中空軸の軸端を径方向外向きに屈曲させて前記転がり軸受の内輪の外端面にかしめつけて、転がり軸受に対する抜け止めと予圧付与とを行う軸受装置であって、

 前記中空軸の転がり軸受嵌合領域において、前記内輪の反かしめ側端面相当位置からかしめ側端面相当位置の手前までの範囲に硬化層が形成され、また前記かしめ側端面相当位置の手前から前記中空軸の軸端までの範囲が未硬化とされている軸受装置」である点で一致し、次の点で相違する。

[相違点]

 本願発明は、内輪の軸方向幅をA、内輪のかしめ側の外端面における軸方向面取長さをC、内輪の反かしめ側の外端面における軸方向面取長さをD、中空軸の厚さをE、面取長さDの位置より前記硬化層のかしめ側端部までの距離をX、硬化処理深さをY(<E)とした場合、硬化層のかしめ側端部の位置を関係式「(A-C-D)Y/E≦X」に基づいて規定することにより、内輪と中空軸との間に隙間が発生しないようにされているのに対し、引用発明は、そのような関係式に基づいて硬化層の範囲について明確に規定していない点。

(4)判断

 上記相違点について検討する。

 本願発明は、面取長さDの位置より硬化層のかしめ側端部までの距離Xの取り得る範囲について、最小値を上記関係式で規定し、最大値を「前記中空軸の転がり軸受嵌合領域において」「かしめ側端面相当位置の手前までの範囲」との事項で規定したものである。

 一方、引用発明は、上記エ.に摘記したように、図9のハブ2cに形成される硬化層の範囲からみて、「前記中空軸の転がり軸受嵌合領域において」「かしめ側端面相当位置の手前までの範囲」を満たしていることは明らかであり、よって、本願発明と引用発明の中空軸に形成される硬化層の取り得る範囲は重複するものであり、重複する範囲において、引用発明の奏する作用、効果も本願発明と同様のものであると認められる。

 また、高速回転ユニットにおいて、意図しない部材間の隙間の形成を避けるようにすることは、振動、騒音防止、ユニットの破損防止等の観点から、当業者が普通に考慮することであり、かしめ部位近傍における硬化層の範囲の最大値、最小値は、中空軸の材料及び寸法、硬化層を形成するための焼き入れ方法及び焼き入れ硬さ、内輪の中空軸への締まり強さ等を考慮して適宜設定すべき設計事項にすぎない。

 なお、審判請求人は、当審における審尋に対する平成22年12月16日付けの回答書において、「引用文献1(審決注:本審決における「引用例」に対応する。)の発明は、かしめ部に亀裂等の損傷が生じることを防ぎ、耐久性を向上させることを課題としていますが、本願発明は、内輪と中空軸との間に隙間が生じてクリープが発生することを防ぐことを課題としております。

 引用文献1の発明で問題とされている亀裂等の損傷は、軸受装置の破壊につながるものでありますが、本願発明で取り上げているクリープの発生は、直接的に軸受装置の破壊につながるようなものではなく、軸受装置の振動発生につながるものであります。亀裂等の損傷と、クリープの発生とは、技術的観点から見て質的に異なる問題であり、引用文献1の発明と本願発明とは、課題自体が異なる発明であります。

 本件発明者は、クリープの防止のために、硬化層のかしめ側端部の位置という、今日まで着目されてこなかった点に着目し、硬化層のかしめ側端部の位置であるXについて、(A-C-D)Y/E≦Xの関係満たすことで、隙間発生防止効果が得られることを見出して本願発明を構成しておりますが、引用文献1には、上記したような本願発明の技術思想は開示されておらず、また、それを示唆する記載もありませんので、引用文献1の発明に基づいて本願発明を創案することは当業者には容易ではないことであると確信致します。」と主張している。

 確かに本願発明と引用発明とは、具体的な課題は異なるとはいえ、隙間なく嵌め合わせたり、かしめたりすることは、高速回転ユニットにおける普遍的な課題に過ぎない。また、本願発明と引用発明とは、その普遍的な課題を包含したそれぞれ異なるより具体的な課題を有する発明であるが、それぞれの課題を達成するための過程を経て重複する硬化層の範囲を備えるに至ったものであり、その重複する範囲において、引用発明が本願発明と同じ作用効果を奏するものであることは、上記のとおりである。

 そして、本願発明の効果も、引用例に記載された発明から当業者が予測し得る範囲内のものであって格別なものとはいえない。

 したがって、本願発明は、引用例に記載された発明に基づいて、当業者が容易に発明をすることができたものであるから、特許法第29条第2項の規定により、特許を受けることができない。

第6 むすび

 以上のとおり、本願発明は、特許法第36条第6項第2号、及び第36条第4項に規定する要件を満たしていないので、特許を受けることができない。

 また、本願発明は、引用発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたものであるから、他の請求項に係る発明について検討するまでもなく、特許法第29条第2項の規定により、特許を受けることができない。

 よって、結論のとおり審決する。